読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants、読売巨人軍)は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞グループ本社。運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」である。
誕生
1931年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカメジャーリーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回かなわなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ[2]が、そこに1つの問題が発生した。1932年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令である。当時の日本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった[3]。
市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得する[4]などチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった[5]。
1934年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名[6]の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜軍が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合[7])で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米軍は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。
1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長すぎる事からアメリカで一般的であったチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして帰国後、1936年に東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称する。これが巨人軍の始まりである。この第1次遠征ではマイナーリーグクラスのチームを相手に128日間で109試合を行い、田部武雄が105盗塁を記録するなど善戦し、対戦成績は75勝33敗1分であった。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦する。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。結成当初の対外試合も参照のこと。
1936年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。直前の2月9日から「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として名古屋金鯱軍と3試合を行う。これが現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。
球団名
· ニックネームの「ジャイアンツ」はアメリカメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)から取り、創設時には東京ジャイアンツと名乗った。
o 現在でもアメリカのマスコミや日本の英字新聞などではTokyo Giantsと呼称される事がある。
呼称について
戦前から、「ジャイアンツ」を日本語に意訳(Giants = 巨人+複数形のsを軍)した愛称「巨人軍」が用いられている。球団の運営会社は現在も「株式会社読売巨人軍」である。球団広報等では、多く球団の自称に 「巨人軍」を用いている。野球規約上定められている球団呼称は「読売ジャイアンツ」であるが、テレビ放送などでは、一般には日本野球機構の球団名を漢字2字で表す慣習から、「軍」を略して「巨人」と呼ぶことが多い。読売グループを含めた全てのマスコミが「読売」と略称せず「巨人」と称するのは、他球団と異なり「巨人」という和名的愛称が広く定着しているためである。ただし、ドラフト会議に おいては「読売」と呼称されている。例えば自軍主催試合ではチケットの印字など他球団の表記も略称を使っている場合には「巨人」と表記され、場内アナウン スなど他球団でも球団呼称を使用する場合には「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお報せいたします。」などのように使用されている。した がって、本球団を指す呼称は「巨人」および「読売ジャイアンツ」の両方とも正しい事が明らかであるため、どちらか一方のみの呼称が正しいとするのは適切で はない。なお、読売巨人軍を指して「巨人」と言った場合、アクセントは「きょじん」の「きょ」に置かれる(大阪の「京橋」と同じアクセント)。他球団の応援スタイルで「○○倒せーオー」とコールする際、「巨人を倒せーオー」とはコールせず、「読売倒せーオー」とコールすることが多い。
マスコット
· 初代マスコットはミスタージャイアンツ。長嶋茂雄が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も 当初あったが現在ではそう呼ばれることが自然となっている。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフに なったと言われている[17]。デザインを手掛けたのは、相沢光朗[18]。後に漫画家の森田拳次が雑誌『少年』で、このキャラを主人公とする漫画(コミカライズ版)を手掛けた(同年4月号〜1967年頃まで連載)。
· 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたり使用された。
· 3代目は1992年から今日まで使われている「ジャビット」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、ウサギを絡ませたものである。また、「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([2]を参照)。
· 2006年からエンブレムが変更、都会のシルエットの中に「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。
· 2011年1月11日からエンブレムを「ウイニングジャビット」に変更した。
· 大日本東京野球倶楽部(1934年)
· 東京巨人軍(1935年 - 1946年)
· 読売ジャイアンツ(1947年 - 現在)
NPB [編集]
日本プロ野球 (NPB) では人気低迷にあえいでいたパシフィック・リーグがア・リーグの成功を参考に1975年から採用した[5]。日本で最初にDHとして打席に立ったのは日本ハムファイターズの阪本敏三であった[5]。採用初年度はリーグの平均打率(.247→.254)と投手の完投数(197→302)がそれぞれ向上し[5]、平均試合時間の5分短縮にも成功したが[5]、肝心の人気回復には繋がらなかった[5]。日本選手権シリーズでは1985年に初めて採用され[5]、阪神タイガースの弘田澄男が初めてDHとして打席に立ったセ・リーグ選手となった[5]。このときは、隔年で全試合採用の年と全試合不採用の年とに分けるという方式がとられ、そのルールに従い、翌1986年は採用せずに実施された[5]。その後、パ・リーグ本拠地球場での採用を毎年続けることに規定が改められ、1987年よりパ・リーグ優勝チームの本拠地の試合で採用している[5]。オールスターゲームでは1983年に初採用されたが、セントラル・リーグが投手を打席に立たせて最後まで抗議の意思を示したため1年で中断[5]。その後セ・リーグが態度を軟化させて1991年からパ・リーグ所属チームの本拠地球場でのみ両リーグが採用するようになり、1993年から全試合に採用されている[5]。セ・パ交流戦で は、パ・リーグ所属チームの主催試合でのみこの制度が採用されている。ファーム(2軍)の試合でも同様に、1軍のパ・リーグチームに該当するホームゲーム で採用されている。オープン戦やファーム(2軍)の教育リーグではセ・リーグ同士のチームが対戦する場合も含めて採用されている。余談だが、スクリーンに 試合出場メンバーを表示する際、出場メンバーそれぞれに守備番号が付される(例:投手→1,捕手→2)が、指名打者を起用する試合では、投手は1ではなく、Pと表示されることがある。
セ・パ交流戦 [編集]
2005年から始まったセ・パ交流戦で はパ・リーグ所属チームの主催試合でのみこの制度が採用されているが、セ・リーグ所属チームのホームグラウンドでは行われていない。このため、セ・リーグ 主催試合では、パ・リーグの投手は打席に立つことになった。パ・リーグのチームは普段はDHとして起用している選手をどう守備に組み込むか、またほとんど 打席に入ることがない投手をどう扱うか、一方のセ・リーグのチームは誰を指名打者として起用するかが戦術の大きな要素となる。パ・リーグに所属しながら打撃が得意、好きだという投手をはじめ、パ・リーグの投手全体の打撃内容が注目される。
福岡ソフトバンクホークスは2005年の交流戦でセ・リーグ主催試合でDH制度が使用できない時に、フリオ・ズレータ(後に千葉ロッテマリーンズに所属)を一塁手として出場させた関係で、主に一塁手・指名打者で外野手の出場経験の少なかった松中信彦を左翼手として出場させた。当初は守備力が不安視されたが無難にこなし、2006年には打撃が好調だった田上秀則に指名打者の座を譲り、外野手としてベストナインを受賞した。